差別はしてはいけません 2009.01.23
アニメやゲームマニアの人を指す「オタク」や、本来の意味を拡張して働く意志の希薄な人を指すようになった「ニート」。
好意はあるんだけどどうしても素直になれなくてつい邪険にしてしまう態度を指す「ツンデレ」などなど。
ここ数年で、体系表現の簡素化が凄く進んだように思う。
グループ分けをすることで、自分や相手の所属を明確に分けることが出来るため、物事を認識するにも大変便利だ。
しかし、分かりやすさには当然弊害もある。
個人ではなくグループそのものに優劣をつけたり排斥したりしようとする、一種の優越意識みたいなものに対してもカテゴライズは分かりやすさを提供してしまうからだ。
ま、正直な所どんな物事にも陰陽はあるのでしょうがないんだけどね。
どうするかは個々のモラルの問題です^^
小学校の頃、社会の歴史で「士農工商穢多非人」を習った。
そして先生は言った。
「穢多、非人と言うのは差別で使う言葉だから使ってはいけません」
子供心に「そうなんだ」としか思わなかったのだが、よく考えてみるとおかしな話だ。
悪いものを悪いと教える事がおかしいのではない。それは正しい。
何がおかしいのかと言うと、「歴史的にあったものの用語として教えたのではなく、今も差別用語としてタブーである」と言う事を児童に認識させた事だ。
これは「やるなよ?絶対にやるなよ?」と子供の好奇心を悪戯にくすぐる事は間違いない。
まあうちらはそんな言葉に興味も示さずに聖矢ごっことか北斗ごっこに邁進していたのから良いんだけどね。
差別をされるって事は簡単に言えばいじめられるって事。
いじめられてるって事は不当な扱いを受けているって事だ。
「差別」「人権」「謝罪とb(ry」なんかを声高々に叫んでいると言えばお隣の国の人をすぐに思いつくけど、本当にそれは差別なんだろうか?
悪いけど相手が黙るから使っているようにしか思えない。
本当に差別されている、いじめられている人は縮み上がってしまって大きな声を出せないもんじゃないのかな?
それは日本人だけ?w
で、俺が言いたいのは。。。
特別視させる(される)と言う事は、自分から垣根を高くしている。
と言う事。
差別されてると認定した人を助けたがる団体とかあるけど、それって差別を無くそうとしてるんじゃなくて差別を継続させようとしてるよね。間違いなく。
差別だと思ってなかったことがいつのまにか差別認定されてたり、無駄に掘り起こしてきたり。
助長するために動いているとしか思えない。
と言うか、可哀想認定する人って結構な確率で上から目線の人が多いと俺は思う。
しかも人助けなんて大義名分を持ってると考えて動いているから困りもの。
それはもはや小さな親切大きなお世話ではなくて、大きく見える親切大きな下世話。
知らなければ正直差別なんて自然に消えていくと思う。
未来の為にも、歴史としてそういった事があったことは記録としても残るべきだし知っておく事も必要だ。
でも、それを「今も続いてるんです!」とか言って騒ぎ立てる必要はないと思う。
日本人としての良識が育っていれば、多少の差異を感じさせる事があっても柔軟に受け入れられると思うんだ。民族的に考えて。
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